釜山の海岸地帯には約5000年前から 人が住み始めた形跡がある。遺跡や遺物は 主に新石器時代以後の物が多く確認されており、 この頃から川や海岸を中心に 村落を築き住み始めたと推測される。
遺跡は海岸沿いや川の貝塚から発見されており、 これらは人が生活する為に適した 環境を整えているからである。
三国県立期の釜山地方は居漆山郡と 東平県に所属していた。この地域に 新羅時代の土城が残っているが、新羅の末、 釜山一帯は後百濟の甄萱に支配される。
朝鮮時代には富山浦と呼ばれ、 早くから日本との貿易が盛んだった。
1592年の壬辰倭乱以後、対外国交が 正常化されるにつれ、釜山港が対外外交の 前線基地として、また、これに伴う 国防都市としての新しい性質が付加され 徐々に都市としての姿に形成された。
1876年2月27日、江原道条約が締結された事により、 釜山港が自動的に開港した。
この頃より、釜山は韓国の海の玄関として、 多くの外来人で込み合う韓国第2の都市、 第1の港口として位置するようになる。
解放後、海外同胞たちが祖国に帰国する帰還港で、 1950年6.25戦争時は臨時首都であった歴史の現場でもある。
いつ頃から釜山(プサン)と呼ぶようになったのか、その正確な時期を知ることは出来ないが『慶尚道地理誌(1425)』『世宗實?地理誌(1454)』『慶尚道續撰地理誌(1469)』には “東?富山浦(トンネプサンポ)”と呼ばれ、1471年に編纂された『海東諸國記』にも“東?之富山浦(トンネノプサン)”と記録されており、この時期は‘富’の字が使われていた。
 1474年の『成宗實?』で初めて“釜山(プサン)”という名称が現れるが、同年、南悌が描いた『プサン浦地図』には以前‘富山’と書かれてあり、1474年、1476年の『成宗實?』にも‘富山’と記録されているが、1485年8月19日作『成宗實?』以後、すべての記録は‘釜山浦’になっている。
 1481年に編纂された『東國輿地勝覽』には“釜山は東平県(現在の堂甘洞近辺)に位置し、山が釜の形に似ているという事でその名を付けたと記録されている。
 1643年の通信使 従事官として日本に渡った申濡の『海槎録』で知られる「登釜山詩」に“山の形の膨らみが釜に似ており、城門は海に面し開けはなれ”というくだりがある。この時代、 釜山鎭城は今日の東区  佐川洞 北側の甑山(チュンサン)に囲まている鄭公壇の位置に城門があり、その真下が海に接しているので、この詩に出てくる山は甑山(チュンサン)を指していると思われる。また18世紀中ごろの「釜山倭館圖」を見ると甑山を点抄とし、“釜山古基”と記されている。
 いつ頃から釜山(プサン)に人が住み始めたのかは定かではないが 東三洞、
鶴洞、アチ島、瀛仙洞、 岩南洞、多大洞、槐亭洞などの貝塚は比較的に初期に属するものだが、放射性炭素年代測定の結果、紀元前3千年と判明した。釜山 海岸地帯は約5千年前から人が住んでいたことになる。

釜山(プサン)は韓半島の南東端に位置し、脊梁山脈と太白山脈の末端浦港構造分枝で、南西の方向に進路を変えて延び、大韓海峡に属す小半島と島を描き乍ら湾入するリアス海岸の特性をもつ。背後には高度500mの 丘陵山地が独立的に分布し、この山麓はなだらかに海岸へと延びている。

 

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